2015年5月14日木曜日

埼玉キワニスクラブで講演会

第306回例会にて卓話を行いました


日時:5月13日(水)12:00-13:30(卓話:12:40-13:25)
会場:大宮ラフォーレ清水園
演題「感動を伝えたい!鷹匠の世界」

左から平林プロデューサー、阿部さん、杉浦、丸山会長
















埼玉キワニスクラブ会員の阿部民子さんからのお誘いで、例会で映画「ぬくめどり」の話をすることになりました。オブザーバーとして平林猛プロデューサーが参加しました。
長年、美術や映像に携わってきましたが、なぜ監督をやるようになったのか。というお話から
鷹匠や放鷹術のお話、そして、地元埼玉のお鷹場の話など、「鷹狩」とはなんぞや?と思って
おられる皆さまに、楽しんで頂けるように、映像や写真を上映しながらお話しました。

ハリスホーク(モモアカノスリ)
特に、将軍吉宗が見沼たんぼ周辺で、馬を走らせ狩りをしていたことに触れると、皆さん、驚きの表情で耳を傾けていました。埼玉は紀州徳川家が管轄していましたので、吉宗もよく鷹狩を行いました。
鷹狩は、将軍たちの娯楽だけでなく、農民に勢子いう追い立て役として借り上げたり、ウナギ、川魚を納入するなど、地元の経済も潤していました。現在でも、地元で鷹狩を仕切る鳥見役の会田家が残っています。
会田家
ただ、文献によると、いきなり将軍たちがやってきて鷹狩をすることが多く、急に何百人も農民が借り出されるので苦労した・・・などという記述もあります。(この部分は講演では行いませんでした)

質問コーナーでは「鷹匠の流派はいくつあるのか」「国は鷹狩文化を支援しているのか」などと
とても感心を持って質問を頂きました。
鷹が生息する調整池
最後に、埼玉キワニスクラブ会長で元埼玉新聞社長丸山さんより、是非、上映会をやろう!と言って頂き、大変感謝しています。また、講演後に、会員の方から、とても面白かったと言ってくださり、ほっとしました。

見沼たんぼ

埼玉キワニスクラブ
http://www.saitama-kiwanis.or.tv/
キワニスクラブは、世界的な民間の奉仕団体。Kiwanis Internationalの埼玉のクラブ。米国デトロイトで1915年に誕生した団体で、名前のキワニスとはデトロイト周辺に住んでいたNative Americanの言葉”Num-kee-Wan-is" (みんな一緒に集まる)に由来している


埼玉キワニスクラブでは毎月第2・4水曜日にいろいろな分野から講師を迎える卓話例会、入院中の幼児の心のケアに役立っているキワニス・ドールの病院への寄贈、小学生を対象とした「子ども作文コンクール」の実施など子どもを重点とした活動を行っています。




2015年2月28日土曜日

中国の鷹匠

晾鷹台:賀清泰(法國人,入華耶穌會修道士
,1735-1815)在1783年所繪白海青。
農業のかたわら鷹狩り

レポート:張昊

レポートは中国と日本の鷹狩を研究されている張昊さんです。鷹狩の歴史は400年前に遡ります。中国東北地方では女真族という民族がいたそうです
清の時代、順治帝は楼村で狩猟専門部門を設け、それから、その部門は王宮に常に鷹、大鳇鱼、真珠などを貢献する役目をしていたそうです。清が潰れるまで鷹はずっと貴族の遊びの道具として使われました。現在、東北部の地元の農民たちの中には、鷹を貢献する官僚の子孫として今でも伝統的な鷹狩りを行っています。

しかし、日本と同じように鷹狩文化の保存継承は難しく、国に対し支援を求めていますがままならないといいます。農業鷹狩とを続けていますが、飛行場での害鳥駆除などの仕事をしながら鷹狩文化の継承活動をしています。







2015年2月19日木曜日

武士の鷹狩り

武士の狩装束拝見!

川越の寺田図書助勝廣邸探訪

川越で行う小江戸川越春まつり他数多くの祭りや行列で行われる火縄銃鉄砲隊を主催し、甲冑や装束を保管されている川越藩火縄銃鉄砲隊保存会会長の寺田図書助勝廣氏とお目にかかり、鷹狩りの装束を見せて頂く。今年は徳川家康没後400年にあたり、鷹にも行列に参加させたいという意向がありました。武士の鷹狩りの装束の一部を拝見させて頂きました。


射籠手(いごて)を装着

射籠手(いごて)にユガケ(手袋)をはめるという説明

萎烏帽子(なええぼし)



1746年の延享武鑑にも御鷹師頭

次に見せて頂いたのは、1746年の延享武鑑。ここに御鷹師頭として掲載されていますが、本の中ごろから手前あたりにありましたので、役職として上のほうにいたことがわかります。寺社奉行に大岡越前守の名前もあり、部下の名前がないことから、着任したてであると寺田氏。

★武鑑の用語解説 - 江戸時代,諸大名の氏名,本国,居城,石高 ,官位,家系,相続,内室,参勤交代の期日,献上および拝領品目,家紋,旗指物,重臣 などを掲載した小型本。

延享武鑑(1746年)
御鷹師頭の名前も記載されている。米が三百表

寺社奉行に大岡越前守の名前も



2015年2月9日月曜日

16mm映画「白さぎと少年」上映会

さいたま市・野田のサギ山を舞台にした
ドキュメンタリー映画

日時:2月7日(日)
会場:プラザイースト 映像シアター
講話:青木義脩(緑区歴史の会会長)
主催:さいたま市緑区
共催:(公財)さいたま市文化振興事業団

「白さぎと少年」(1964年)
制作:東映株式会社教育映像部/1964年/モノクロ ・上映時間 50分
監督・脚本:酒井修
出演:鯨井利夫/永井玄哉/安芸秀子/森田文夫

内容: 埼玉県浦和市(当時)の特別天然記念物として保護されているサギ山。毎春やって来る白サギはそこで子を産み、秋になると南の海に帰っていく。こうして過去何百年間も続けられてきたこの野生の鳥と人間との心温まる交情の様子の中に、平和で豊かな生活へのあこがれと願いを、美しい白サギの生態をバックに描き出している。ナレーターは東野英治郎。学校や公民館などで上映され、愛されつづけている東映児童映画の一作品。(内容:東映チャンネルより転載https://www.toeich.jp/backnumber/2003/0309.html)




さいたま市上野田に「野田のサギ山跡」があります。なぜ「跡」かというと、ここは5軒の農家の屋敷林で、かつて、サギの営巣地で江戸時代には数十万羽いたといわれており、紀州徳川家では「御囲鷹」として大切に保護されていました。しかし、1960年代から営巣数が減少しはじめます。
それでも白鷺タワー(入場料10円)ができるなど観光地としても人気を呼んでいました、そしてついに1971年にはサギ類の営巣は見られなくなりました。原因は、水田から畑へ移行したことや、水銀系の農薬が鳥たちの死を招いた、また宅地化や観光化に伴う騒音などがあげられます。



受付風景:当日参加を申し込む人たちもいて、人気の
高さがうかがえた。(事前申し込みのみ)
 現在でも、白さぎはたくさん生息しています。見沼たんぼの中央を流れる芝川であったり、西側、東側の代用水などで見られます。また、調整池では、白サギ鷹の姿も見られ、野鳥観察や写真家が訪れています。
白さぎに出会えるマップも展示してありました
 講話「旧・特別天然記念物「野田のサギ及びその繁殖地」について
講師:青木義脩

上映の後、緑区歴史の会会長の青木義脩さんによって、野田のサギ山保護をされていた当時の話やシラサギのたどった歴史についてお話がありました。青木先生には、昨年8月にさいたま芸術劇場でドキュメンタリー映画「ぬくめどり」~鷹匠の世界~を上映した際に、ゲストとしてトークをお願い致しました。その際にも、野田のサギ山や、鷹狩りの祭の鳥見役会田家の話など興味深いお話を伺いました。

≪講話の内容≫
●野田のサギ山
●その歴史
●天然記念物から特別指定に
●栄光の記録と尽力された方々
●なぜサギ山は滅んだか
16mm映写機の前の青木義脩さん


野田のサギ山は消えてしまいましたが、今でも見沼田んぼでは白サギ、青サギがよく見られます。農家の皆さん、住民の皆さんの協力により、白サギをはじめ、鷹たちが棲むことができます。見沼たんぼという緑地を守り、動物、植物が生きられる環境を守っていきたいと思います。

白鷺写真提供:淀屋橋心理療法センター

2015年1月9日金曜日

2015新春恒例 浜離宮放鷹術実演会

2015年1月2日 3日
華麗なる放鷹術 鷹狩の世界
浜離宮恩賜庭園

毎年1万人を超えるお客様で賑わうこの実演会は23回目を迎えます。諏訪流17代宗家田籠善次郎鷹師を筆頭に門下生たちが、明治時代に制定された鷹匠の衣装で登場。華麗な技の数々を実演した。
技は、「渡り」というもので、期の枝に鷹を飛ばし、再び自分の拳に戻す技。「振替え」は二人の鷹匠が向かい会い、鷹を放ち合う技。どんな将軍が来てもその拳に止まるようにするもの。「飛びながし」は、飛び上がった鳩を鷹が捕える技。年に一回、日本の正月の風物詩です。
華麗なる技の「渡り」の披露。左稲田鷹匠と田籠鷹師
諏訪流17代宗家田籠善次郎鷹師

鷹の文化を知ろう!
将軍様の雑煮
歌舞伎座で販売しているものを会場で売っています
歌舞伎座から出店しているブースでは、将軍が召しあがったとされる雑煮が用意された。十一代将軍徳川家斉が食した雑煮を再現。もち、里芋、長菜、青昆布などが入ったもの。千葉大学の松下幸子名誉教授監修によるもので、浜離宮恩賜庭園ならではの食文化を味わうことができる

将軍の雑煮で新年を迎えよう!

2014年9月16日火曜日

見沼たんぼと鳥見役会田家

見沼たんぼの芝川には、しらさぎ、かももいます
埼玉の川口から大宮に広がる見沼たんぼは、関東最大級の緑地帯です。米や野菜、果樹、そして雑木林、川で構成されるこの地域周辺は、紀州徳川家の御鷹場でした。この鷹場を取り仕切っていたのが、足立群大門宿の名主であった会田家です。そして日光街道大門宿の本陣を張り、鷹狩を取り仕切る「鳥見役」でした。会田家に残る鷹狩に関する古文書は2000を数えます。

古文書の一部には、御鷹場御用急回状(魚猟用達)、紀州御鷹場御用(御用うなぎ)とあり、献上用の魚や鳥を調達していたことが記してあります。納入者は、御鷹場内魚類買入御用相勤二付一礼とあり、川魚御用清三郎、善兵御新田伝右衛門から川魚を購入していたことがわかります。
そして記録の多くを占めているのが御鷹場御用急回状として、急きょ人足として農民が調達されたことも残されており、多くの農民が鷹狩に駆り出され、迷惑をしていたかと思わせるような記述もありますが、将軍吉宗は、農繁期を避けて鷹狩を行ったという記述も他文献にあります。

鳥見役はこのように鷹狩のための宿、食事、鷹場の準備、獲物となるキジやシカなど、密猟から守るために獲物を調べ、鷹場を移動するなど完璧な準備をしていました。ですから食事から鷹場の警備、勢子(せこ)と呼ばれる獲物を追いこむ役目の農民や武士を調達する役目などなど、鷹狩に関する一切の現場仕切りをしておりました。
見沼たんぼで見つけたブルーのきれいな小鳥


また、徳川家康の時代は、鷹狩には1週間2週間と農地を借り上げ、地代を払っていたといいますから、農閑期、農民を養うという一面もあったのでしょう。

会田家とは別に、日光御成街道の鳩ケ谷宿本院に船戸家があり、鷹狩に関する文献も残されています。埼玉には日本で一番鷹狩の文献が残されていると言われています。
鷹狩文化の研究は始まったばかりです。

2014年8月22日金曜日

高級料亭の鴨スキ

鷹匠は、鷹を飼育し狩りができるまで育て上げるだけでなく、鷹主である天皇や将軍が捕った獲物を料理し提供するまでの仕事をします。

鴨スキは、鷹狩に出かけた際、農機具の鋤の上で捕った鴨を食したことから始まりました。狩りに出かけるときは腰に鉄板を下げて歩いたといいますから、さぞ重かったことでしょう。行徳にも鴨鋤専門店がありましたが、現在はありません。

受け皿にタレを入れて、鴨肉をつけて頂きます

新橋鋭意部情の前にあった料亭「武蔵野」

戦後、新橋演舞場前にあった料亭「武蔵野」。現在は銀座武蔵野ビルとして、オフィスビルとなっています。この武蔵野には、「鴨スキ」が大好きな客がいました。それがコスモ石油(元大協石油)の創始者です。炭火に鋤に見立てた鉄板を乗せ、出汁のきいたタレをつけて頂く。写真は盆の上に炭火の小さな七輪が乗せていますが、実際はお盆の外に出し、仲居さんが鴨肉を焼いて提供していました。当時の鴨肉はとてもやわらかく、現在の鴨肉にはおよばない絶品でした。